WEBタイムス 平成10年(1998年)11月13日 第554号
   

<埋蔵文化研20周年「ひろしまの遺跡」・地元にのこる弥生の姿>

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 広島県埋蔵文化財調査センターが設立二十周年を迎え、去る十月十八日(日)、県民文化センターで「ひろしまの遺跡を語る」という集まりがあった。
 テーマが「地域性をさぐる−ひろしまの弥生時代」ということで、本紙エリア(広島市西区己斐〜佐伯郡大野町・宮島町・佐伯町)の弥生の姿を少しでも見られればと考え、参加した。
 徳島文理大文学部文化財学科の石野博信教授が「考古学からみた耶馬台国時代」と題して基調講演。その後、調査センターの研究員が、集落、墳墓、土器、土製品のそれぞれの地域性と総括について報告した。
 石野氏は、「魏志倭人伝」の記述に沿いながら、「卑弥呼はAD一八〇年頃即位し、二四八年頃亡くなったのではないか」と推定しているとしたうえで、(1)どういう館に住んでいたか、(2)どんな墓に葬られたか、(3)使った鏡は、(4)その頃の筑紫や安芸や出雲の勢力は、の四点について述べた。
 館については、周囲に楼観(物見やぐら)をもち、入口に兵士が見張りに立つつ城柵をめぐらした中に、宮室(仕事部屋)をもっていた。宮室のほかに居処(休んだり食事をしたり)があり、男子が出入りしていた。この男子は卑弥呼の言葉を伝える役目だったと思われる。隣り合った場所に別の柵に囲まれた男弟の屋敷があり、この男弟が実際の政務を執っていたのではないか。「婢(ひ、はしため)千人」とあり、その住処も近くにあったろう。そして、それら全部がさらに大きな囲みの中にあった、などと図を描きながら説明した。
 墓については、最近の年輪による年代測定法の進歩で、三世紀と考えられてきた土器がずっと古いという結果も出ていることから、三世紀末と考えられていた前方後円墳の出現もずっと古い年代に見直される趨勢にある。ここから、卑弥呼の墓を前方後円墳と考えることもでき、三世紀で最大の箸中山古墳(箸墓、奈良盆地)がその可能性をもつ。
 黒塚古墳から見つかった三十四枚の鏡について卑弥呼の鏡との関連が言われている。うち三十三枚の三角縁神獣鏡の装飾は道教の教えに従って描かれており、卑弥呼の呪術も道教系という関連はあるが、もっとずっと後の大和政権が出来上がった頃のものと考える。
 最後に、三世紀の瀬戸内海については、安芸など西部の力が奈良勢力に力をもっていたことがわかってくる可能性が出てきた。というのは最近、奈良の東田(ひがいだ)遺跡で、土器の棺が見つかったが、身は伊予(愛媛県)で、蓋は尾張(名古屋)だった。箸墓の近くでも伊予産の木棺があり、従来言われていた大和政権への吉備(岡山)の勢力の関与が、さらに西の勢力の存在を示している。
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 遺物別の報告による印象は、弥生時代の広島県地域では、三次・庄原、神辺、大朝に遺物が多く、出雲や吉備などとの文化交流も出土した土器に色濃く残っていることである。現在の、瀬戸内沿岸で都市生活をおくる我々からすれば、寒くてあまり便利でない感じをもつ地域である。しかし弥生期はいうまでもなくイネ栽培の時代。この地方はいずれも、比較的広い平野と川に恵まれている。
 ひるがえって本紙エリア内をみると、こうした平野はない。広島市中心部が太田川の沖積層であることはよく知られているが、佐伯区中心部の平坦部も八幡川や石内川の堆積物でできている。一説では、新幹線のところまで海が入り込んでいたという。上記の報告の参考資料や、(財)広島市文化財団文化科学部文化財課の発掘調査資料などから、弥生時代の遺跡・遺物の発掘されたあるいは存在がわかっている場所をあげると次のようになり、略地図に置いてみた。(特に注のない場合、すべて佐伯区)
 一見してわかるように、廿日市市地御前を除けば、弥生の人々の暮しのあとは、川に沿った小高い丘陵地に集中していて、海辺には遺跡がない。現在の発掘調査は、開発工事の際に遺跡の存在が分かる場合に行われるのがほとんどなので、埋蔵文化財に対して注意がそそがれるようになる以前に開発されてしまったもの、個々の民家の下に埋まっているものなどは、なかなか日の目をみることはない。発掘されたものがないからといって、海辺に人が住まなかったわけではないが、大勢の人を養うほどの土地はなかったのだろう。
<集落跡>
 古江西第一号貝塚(西区)には縄文から弥生、奈良・平安までの何層もの集落跡があり、また倉重向山遺跡が弥生中期(BC100〜AD100)に属するが、あとはすべて後期あるいは古墳時代の遺跡。なかでも浄安寺遺跡からは六十軒もの住居跡が発見された。
 笹利迫田()、水晶城()、浄安寺()、倉重2号(20)、白禿(24)、下沖3号()、下沖5号()、和田1号()、小林A地点(12)、小林B地点(11)、城ノ下A地点(10)、倉重向山(22)、稗畑(18)、平尾(?)、串山城(?)、黒谷(?)、高井2号(13)、古江西第一号貝塚、月見城遺跡群(23
<墳墓群>
 小林B(11)、平尾(?)、稗畑(18
<土器>
 和田1号遺跡、丸小山遺跡(49、廿日市市)から弥生前期、下沖2号遺跡()、工神社遺跡(26)から中期末の土器が出土、ほかはすべて後期あるいは古墳時代。
 水晶城、和田1号、下沖5号、小林A地点、小林B地点、城ノ下A地点、下沖3号、笹利迫田、黒谷、串山城、下沖2号、平尾、白禿、浄安寺、倉重向山、稗畑、寺山(25)、永寿園(19)、翆が原、城録(17)、広島市植物公園(21)、河内野登呂(1・2)、河内小林、工神社、高井、高尾山(37、以下、廿日市市)、丸小山(49)、黒岩(30)、長野(風呂谷34)、二重原寺が迫(41)、東岡迫(42)、国実(28)、河野原(36)、極楽寺山(35)、北山(48)、ごごろ山(39)、王子山(40)、大平(27)、泰蘭寺、桃山(50)、鎮神原(31)、長谷(32)、大幸貝塚(46)、長尾貝塚(47)、宮迫貝塚
<土製品>
 倉重向山(土製紡錘車)、稗畑(土錘)、水晶城(分銅形土製品)、浄安寺(板状土製品)
<鉄器>
 小林(板状鉄斧)、浄安寺(やりがんな、鏃)、水晶城(やりがんな)、城ノ下A地点(やりがんな、鏃)、下沖5号(袋鑿、鏃)、倉重向山(鑿、鏃)、白禿(刀子、鏃)、下沖2号(刀子)、高井2号(刀子、鏃)、笹利迫田(鎌)、下沖3号(鎌)、小林(鎌、鏃)、串山城(鏃)、黒谷(鏃)
<青銅器>
 下沖2号(鏃)、城ノ下A(鏃)、浄安寺(鏃)
<石製品>
 和田1号遺跡から弥生前期の石斧、稗畑遺跡から中期の磨製石包丁など。ほかは後期。
 残念社東(大野町、柱状抉入片刃石斧)、稗畑、黒谷(砥石)、和田1号、高井2号(削器、砥石ほか)、下沖5号(石鏃、蛤刃石斧ほか)、小林A(磨製石包丁、紡錘車ほか)、浄安寺(磨製石鏃、砥石など)、古江西町(石戈、時期不明)

 



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