3.最果ての釧路
(一)
子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな
啄木が小樽を白石社長と共に発ったのは一月十九日であった。途中岩見沢に一泊、社長は札幌で下車して旭川で落ち合うことになっていた。
翌日十時半岩見沢発、白一色の単調な風景の中を汽車は走った。午後三時過ぎ旭川着、ただちに駅前の宮越屋に投宿。日が暮れてから社長も着いた。
翌朝いよいよ六時半の始発で釧路へ向けて社長と共に旭川を発つ。まもなく旭日が昇り雪の原野を陽は赤々と照らした。
水蒸気
列車の窓に花のごと凍てしを染むる
あかつきの色
また雪に埋もれた川の風景も啄木の印象に残った。
空知川雪に埋れて
鳥も見えず
岸辺の林に人ひとりゐき
当時の汽車は現在では想像出来ないくらいの時間を要した。帯広を通過したのが三時半で、この間でも九時間かかっている。釧路へはまだこの先六時間走らねばならない。
啄木は心身の疲労と共に深い漂泊の悲しみに包まれていたことだろう。
いたく疲れて猶も
きれぎれに思ふは
我のいとしさなりき
旭川を発って十五時間を費やし、最果ての町釧路に到着したのは厳冬の夜の九時半であった。
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
汽車が釧路まで着いたのは啄木の来る前年のことであり、駅舎が町の郊外に出来た。
したがって駅前などは人家はまばらで、おそらく燈火も乏しかったであろう。ぼんやりと雪あかりに浮かぶ舎外の風景はなんとも寂しいものであったにちがいない。
駅には「釧路新聞」の佐藤国司(理事)が迎えに出ていた。十町ほどの道程を浦見町の佐藤宅まで一緒に歩いて行った。北海の冬の冷気は容赦なく彼のきゃしゃな身体に凍み通った。
この夜は佐藤宅での第一夜を送る。
明けて一月二十二日の日記。「起きてみると、夜具の襟が息で真白に氷って居る。華氏寒暖計零下十二度。顔を洗ふ時シャボン箱に手が食付いた。日景主筆が来た。共に出社する。」ふるさと渋民も東北の山村なので冬は寒いが、釧路の寒さはまた格別であった。
新聞社はレンガ造りの新築社屋で美しく、また偶然にも、東京の下町で一緒だった佐藤岩という人物が三面の記者になっていたことには驚いた。もう一人の上杉という男は以前物理の中学校教師だったという。
翌日、佐藤宅から洲崎町一丁目の関下宿屋に移る。二階の八畳一間で、何しろ家財道具を持たないのだから広びろとしてはいるが、火鉢一つの部屋は寒さも厳しい。
出社して間もなく、社長の招待で編集の四人と佐藤理事を加えて釧路第一の料亭「喜望楼」で宴会が持たれた。
釧路は当時、人口一万三千ほどの港町であったが、料亭は数軒あって芸者も四十人くらいはいたという。なかなか活気のある町であった。宴席には小新と小玉二人の芸者も呼ばれ、啄木が芸者というものに接したのはこの時が初めてであったが、有名な小奴と知り合うのはもう少し後のことである。
社のこれからの運営方針が協議され、まだ機械が未着なので当面三月まではこのままで時々六頁のものを出すこと、最近出来た「北東新報」と戦いつつ漸次拡張するというのがこの夜の決定であった。
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