1.函館の歌
(二)
陸奥丸が函館に入港したのは午前九時であった。当時の連絡船は現在のように直接岸壁に接岸せず、沖に停泊した本船から、はしけに乗り移って上陸したのである。
しかし、上陸地点が、東浜桟橋と鉄道桟橋の二箇所になっていて、光子が世話になる小樽の山本駅長から函館駅の助役に事前に連絡が入っていて、彼等兄妹は鉄道桟橋に上陸した。
一方「苜蓿社」の同人達は、五月五日朝函館着の通知を受けていたから、当然社に近い東浜桟橋に上陸するものと思い込み、その日は幸い日曜日だったので、うち揃って迎えに出ていた。その時の様子は岩崎正(白鯨)の文章に詳しい。
「連日の雨で街路は田の様にぬかった。東浜町の桟橋で啄木の上陸を待っている間に啄木についての様々な話が出た。誰も啄木に面識のある人は居なかった。写真で知っているのを頼りに、桟橋に登って来る人を一人逃さず皆で見張っていた。待っても待っても、それらしい人は来なかった。」「吾々は、其処で四方に別れた。松岡と私とが社に帰って見ると、車夫が持って来たと言う啄木からの手紙が卓の上に置かれてあった。松岡は封を切って読んだ。停車場前の恵比須屋に居るから、来てくれと言うのであった。鉄道馬車の遅いのがもどかしく、途中から降りて走って行った。」「石川君は肩の角張った、小柄な人であった。」
ここにはその日の状況が活写されている。この中で恵比須屋と書いてあったように岩崎は述べているが、これは岩崎の記憶違いで、啄木が函館を去る一週間ほど前にまとめた文章の中で、「予を旅店広島屋に迎へたるは、」とあり、広島屋のほうが正しい。
同人松岡政之助(蕗堂)は啄木が来函するまで原稿依頼やその他で連絡係りの役目をしていたが、後年川並秀雄の訪問を受けて次のように語ったという。
「或る日松岡は、東京の大橋図書舘で本を読んでいた。彼の隣に一人の青年がやはり、本を一生懸命読んでいた。何かの拍子に松岡は、この青年に小声で話をしかけた。話を交えているうちにこの青年こそかねて『明星』でその名を知っていた啄木であるということがわかった。」と、彼は啄木が函館に来る前にすでに面識があったように語っているので、この談話を信じて、松岡が啄木を知っていたように述べている記述を一、二目にしているが、この談話は信頼出来ない。なぜならば、前記せるごとく岩崎が「誰も啄木に面識のある人は居なかった。写真で知っているのを頼りに、」とあり、また啄木自身が、「函館の夏」という文章の中で、松岡と岩崎についての印象を述べた後に、「以上二君何れも初めて逢える也。」と記しているからである。
とにかく、岩崎と松岡は啄木を伴って、松岡の下宿している青柳町四十五番地、和賀市蔵方へもどってきた。松岡はこの二階八畳間に測候所勤務の大井正枝と二人で自炊生活をしていたのだが、そこへ啄木が当分のあいだ同居させてもらうことになった。
啄木は的確な人物評を下すことでは定評のある人物で、「松岡君は色白く肥りて背は余り高からず、近眼鏡をかけて何処やら世にいふ色男明たる風体也。」「床の間に様々の書籍あれど一つとしてよく読みたりと見ゆるはなかりき。」「この人も亦書を一種の装飾に用うる人なり。さてその物いふ様、本来が相憎よき人にあらねど何処となく世慣れて社の誰よりも浮世臭き語を多く使ふ癖あり、一口にいへば一種のヒネクレ者なり。」と、なかなか手厳しい観察をしている。これでは好意で部屋を提供している松岡としては全く立つ瀬がない。
その夜、つとに天才詩人として「明星」誌上で活躍している啄木が来たという連絡を受けた同人達が、一目見ようとあまり広くもない部屋に多数集まったという。
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