老尼は今まで深い皺の中に糸のように閉じていた細い目をかすかに開けた。
よもぎの声が聞こえたのか、それともよもぎの身体の暖かさが、眠りを醒まさせるのに役に立ったか。だが、その目はうつろでとても焦点があっている目ではない。でも老尼は、今自分は誰かに抱かれている、そしてまだ生きているのだという安堵感が、身体の内に沸きあがって来たのか、再び静かに目を閉じて、よもぎの懐に顔を埋めた。
よもぎも一緒に目を閉じた。老尼をしっかりと抱きながら、そのかぼそい生命の糸が切れることのないようにと、何ものかに向かって必死に祈るのであった。
おふくに引っ張られるようにして駆けつけて来たさっきの漁師は、息をはずませながら、
「なんじゃなんじゃ…」
と、その場をのぞき込んだ。そして、
「ありゃ?! これは六角堂の庵住さまだ! これはいかん。お堂まで運ばにゃいかん。これこれ、そこの男の子。あそこの百姓家へ行って雨戸を一枚借りて来い。早くはやく」とせきたてる。
「六角堂の庵住さまですって? その六角堂というのはどこですか?」と、よもぎ @ @ @がせき込むように聞くと、漁師は、
「すぐそこじゃ。さっき話した桜尾山のふもとじゃ…」と答えた。
子供たちはお花見のこともすっかり忘れて、異常な中の三人の大人をとり囲んで心もとなげに見守った。
二、三人の男の子が、なんぎそうな恰好をしながら雨戸を運んできた。
こわれものにでもさわるように、こわごわと、みんなで力を合わせて、老尼を戸板に載せた。と、今まで老尼の身体の下になっていて気付かなかったが、何やら包み物のあるのをおふくが見つけた。
「せんせ。これなんじゃろ?…」と不審気に言ってその包みを拾い上げた。
「あっ重たい!」と言いながらおふく @ @が手渡したその包みを受け取ったよもぎも、その包みの大きさに似合わず、ずしりとした重味にびっくりした。
咄嗟に「何であろう?」と急いで包みを開けてみると、それは一面の手鏡であった。
よもぎにはよくは分からないが、その手鏡は、日頃自分が使っているものなどよりひと廻り大きく、ずんとした重味があり、はるかに上等なものであることぐらいは想像できた。
急な場合ではあったが、よもぎが何思わず鏡を裏返してみると、一面に目を見張るばかりの見事な花鳥と神仙の彫りものがあり、更に、
天下一因幡守藤原宗伯吉勝作之
という文字が、よく手入れされた鏡の素性を語っている。
よもぎは、この鏡にはきっと何か深い特別ないわれがあるに違いないと思ったが、今はそのせんさくをしている暇はない。その鏡を元通りに包みなおすと、しっかりと左脇にかかえ、右手を急いで老尼の横たわる戸板にかけた。
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