「厳島合戦」といえば、いうまでもなく弘治元年(一五五五)九月、陶晴賢(すえはるかた)の軍を毛利元就が破った合戦をさす。
厳島合戦の戦場として主に伝えられているのは、毛利本陣だった宮尾城、陶軍が本陣を敷いた塔の岡、元就軍がひそかに上陸した包が浦と博打尾(ばくちお)、小早川勢が大勝した有の浦、敗勢の陶軍の警固船の大将、弘中隆包(たかかね)父子が滝町を背に毛利を防ごうと戦った観音堂、その弘中父子が力つきて死んだ駒が林、晴賢が自刃した大江の浦など。
しかし、厳島が争奪の対象になったのは、この時が初めてではない。規模は別にして、数えきれないほどの奪い合いがあった。とくに、藤原神主家の相続をめぐって戦乱が続いた三十年ほどは、めまぐるしい争奪戦が繰り返され、社家も僧侶も東へ西へと揺れ動いた。棚守房顕も幾度も「事が多すぎて書き記せない」と覚書に記している。
合戦前夜の厳島をみておこう。
大内(陶)対毛利の決戦の場として厳島が選ばれた理由には、「狭い島に陶を閉じこめて、多勢に無勢の戦いを有利に導こうという元就の戦略」だったという説が多いらしい。毛利勢の本拠だった宮尾城が別名「囮(おとり)城」と紹介されることが多いのも、そのせいだろう。
たしかに、米が経済の中心と考えると、宮島そのものに領地としての魅力はない。江戸時代半ばを過ぎたころにも、「五穀をつくらず、菜疎の類までも舟に載せ来る」(「芸藩通志」I・巻16)という所だった。
しかし、この戦国時代に先立つ室町時代は、生産力が高まり、その余裕の上に人々の暮らしが自由になり始めた時代だった。あちこちで「市」が立つ、つまり、商品の流通が盛んになり、商人の活躍が始まる。
宮島に人が住み始めたのも、室町頃からだという。僧や内侍(ないし、巫女のこと)が住み始め、職人たちも暮らし始める。神社の周辺に参詣人相手の市がたち、それがまた、商人の参詣を招く。商人が常設の店を構えるようになると、やがて参詣人の宿泊も始まる。
人の往来が増え、それに従って航路や陸路も整備される。陸路をきた参詣人は草津や廿日市辺りから宮島へ渡ったし、舟で参詣する人たちは直接宮島へ来た。こうして、戦国のころには、遠く堺や博多の商人たちが参詣し、絵馬を残している。
神社禰宜(ねぎ)の飯田楯明氏によると、こんなこともあった。一五四二年のこと、野犬が自由に島に入って来る。鹿を次々に殺すので島の人たちは困り果て、犬を退治した。宮島では、つい三十年ほど前まで、島内で犬を飼うのは禁じられていたそうだ。
厳島合戦より二百五十年も後のことだが、厳島には千二十八戸の家があり、三千七百三十四人が住んでいた(ちなみに、現在の人口は約二千五百人)。そのうち神社の関係者が二百一人、僧が六十五人であとは町人。七十九艘の船があり、社役二、役人一、入山船七、商船五十、漁船十九となっていた。
島のうっそうたる森林は、島人であれば手続きをすれば利用でき、薪として近郷に売ってもよかった。樵(きこり)が二百余人いると記している。また、「毛利★★(しおから)」というものがあった。管弦祭の饗膳に使った鯛の腸(はらわた)を漬けたもので、毛利時代から漬ける容器を替えずに作られている(「芸藩通志」I・巻16)。
瀬戸内は古くから交易の大幹線だったが、この頃は呉から厳島、大野というのが代表的な航路だった。宮島の裏側、つまり神社と反対側の海岸は、いまでも風波が強い。静かな大野瀬戸を選ぶ舟の道案内と、乱暴を働く舟からの安全を請け負って、村上水軍が通行料を徴収していた。
大内義隆を一五五一年、深川大寧寺(現長門市)で自刃に追い込む陶晴賢は、その挙兵を前に厳島を占領した。そして、翌年、「七ケ条の掟」を出した。その中で、舟に警固米(けごまい、通行料)をかけることを禁止した。村上水軍は持っていた権益を取り上げられたことになる。
こうして見ると、毛利氏がやってきた時代の厳島は、中世と近世をつなぐ最も進んだ地域だったのだろう。
(室町時代の特徴、および宮島に人が住みはじめ、商人が参詣に、交易にと集まって来るというくだりは、NHKハイビジョンセミナーでの秋山伸隆広島女子大助教授のお話をお借りしました。)
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